大阪高等裁判所 昭和62年(ネ)2249号 判決 1990年4月27日
主文
原判決を次のとおり変更する。
被控訴人は、控訴人に対し、金二九一三万五四五四円及びこれに対する昭和五五年一〇月三一日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
控訴人のその余の請求を棄却する。
訴訟費用は、第一、二審を通じ、これを二分し、その一を控訴人の負担とし、その余を被控訴人の負担とする。
事実
第一 当事者の求めた裁判
一 控訴人
原判決を取り消す。
被控訴人は、控訴人に対し、金五一二七万五二七二円及び内金四九二七万五二七二円に対する昭和五五年一〇月三一日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
訴訟費用は第一、二審を通じ被控訴人の負担とする。
二 被控訴人
本件控訴を棄却する。
控訴費用は控訴人の負担とする。
第二 当事者の主張
原判決事実摘示と同一であるから、これを引用する。
ただし、原判決七枚目表九行目の「・五」を削除する。
第三 証拠関係<省略>
理由
一 請求原因1の事実は当事者間に争いがない。
二 弁論の全趣旨によれば、請求原因2(一)の事実が認められる。
三 <証拠>によれば、次の事実が認められる。
清文は、中学校卒業後、昭和四四年頃肝臓疾患にかかり、昭和五一年からノイローゼ気味となり、昭和五二年精神神経症と診断され、その後一時軽快したけれども、昭和五四年から再び悪化し、ほとんど自宅の部屋に閉じ籠もった生活をしていたものであり、二、三日前から風邪気味であるなど少し具合が悪かったところ、昭和五五年一〇月二九日午後一〇時三〇分頃、自宅において急に苦痛を訴えたので、同日午後一一時〇七分、救急車で被控訴人病院(被告病院)に搬入され(救急車で同病院に搬入されたことは当事者間に争いがない)、当直の増田医師の診察を受けた(同医師の診察を受けたことは当事者間に争いがない)。
同医師は、意識正常(清明)、瞳孔正常、顔面蒼白(顔色悪い)、眼球血膜に軽い黄疸症状、下腿に軽度の浮腫及び軽度の腹部膨満があり、血圧132/58、脈拍七二、体温三六・五度で、心音に異常なしとの所見を得、主訴として上腹部痛、腹部膨満感、全身の倦怠感、息苦しさ、吐き気の訴えを受けたが、問診の際、清文が問いかけに対しほとんど応答せず、意思の疎通を欠き、隔絶感を感じさせたので、精神疾患の疑いを持ち、控訴人から精神分裂病で入院したことがあるとの誤った事実を聞かされ、さらに、肝臓疾患を患ったことがあることを聴取し、結局、前記所見及び主訴などに基づき、肝臓疾患があるが、緊急に処置しなければならない状態でなく、翌日以降精密検査のうえ確定診断を下せばよいと判断し、本人の主訴も考慮して清文を入院させ、また、精神科医と連絡を取る必要があると考えた。
清文は、入院後苛々した状態が続き、体動が激しく、不眠、呼吸苦、吐き気、全身の倦怠感を訴え、翌三〇日の明け方になるに従い右症状が増強したので、同日午前七時頃、呼吸苦を軽減させるため酸素吸入がされ、右時点では血圧138/80,脈拍八四、体温三六度であったが、午前九時三〇分頃容体が急変し、九時三七分頃無呼吸の状態となり、一〇時五分死亡した(当時三一才)。
なお、午前五時四〇分頃、前日の増田医師の指示にしたがって採取された血液検査の結果(死亡後判明)は、CPK三〇五(正常値の範囲二三ないし九五)、LDH一〇九二(同二一九ないし四〇〇)、CPT二〇九(同八ないし五〇)、COT三五一(同一二ないし四〇)、ナトリウム一三三(同一三六ないし一四五)、カリウム四・八(同三・七ないし四・八)、白血球九八〇〇(同四〇〇〇ないし八五〇〇)であって、心筋梗塞であることを示す数値であり、容体急変後された心電図検査では心筋梗塞特有の波形が出ていた。
右認定事実を前提にすると、急な発症、上腹部痛ないし同所の膨満感、全身の倦怠感、呼吸苦、吐き気、血液検査及び心電図検査の結果などは、清文の疾患が心筋梗塞であることを示しており(<証拠>参照)、<証拠>に記載されている死因についての見解ないし判断はいずれも相当ということができ、これによれば、清文は、一〇月二九日午後一〇時三〇分の時点で心筋梗塞が発症し、時間の経過とともに症状が悪化し、これにより死亡するに至ったということができる。
なお、証人深水眞知子、同伊東隆一は、<証拠>を当時存在したカルテ、当直日誌などを基に記載したと証言する一方、深水証人は、<証拠>の発病後約一〇時間なる記載につき、伊東証人は、初診時の主訴・所見及びその後の経過欄の記載につき、それぞれその正確性を否定するかのごとき供述をするが、同人らの医師としての識見・立場についての供述などと照らし併せ考えると、右否定供述は説得力がなく、これに反し、前者の記載経過についての証言は、医師の通常の書類作成業務として矛盾のないものと解され、同書証の記載内容は十分信用できる。
これに対し、被控訴人は、清文の死因が精神病患者によく見られる原因不明の突然死であると推定でき、清文の疾患は心筋梗塞ではないと主張し、<証拠>がこれに沿うが、前記各証拠に照らし、採用することができず、前記認定を左右しない。
すなわち、まず、右各証拠のうち、清文が精神分裂病であるとする点及びこれを前提にしている点は、事実の誤認であり、失当である(<証拠>参照)。
次に、清文が肝臓疾患を有していたとの点それ自体は正当であるが、本件での問題は、清文が一〇月二九日午後一〇時三〇分の時点で体調に変動をきたして被控訴人病院に入院し、時間の経過とともに症状が悪化し、これにより死亡するに至ったその疾患が何かなのであって、控訴人の主張・立証も清文に肝臓疾患があったことそれ自体を否定する趣旨のものではなく、右問題の疾患が心筋梗塞であって、肝臓疾患でないとするものであり、右各証拠は、右問題の疾患を肝臓疾患とする点において失当であり、逆にいえば、右問題の疾患を心筋梗塞とする控訴人の主張・立証を、肝臓疾患が存在することを示す症状・検査データを指摘することによって論難することは、的外れである。
次に、右各証拠は、胸痛、肺のラッセル音(以下「ラ音」という)のないこと、心音に異常のないことを指摘するが、胸痛については、患者によってはこれを例えば本件におけるように上腹部痛などと表現することがあり、吐き気を伴う上腹部痛は下壁梗塞において多く見られる自覚症状であって、心筋梗塞を疑わせる症状であることに関しては<証拠>において指摘されているとおりであり(なお<証拠>参照)、また、ラ音のないことは、増田証人がその旨を供述するが、ラ音の聴取方法は、患者を座らせ、背中を広げさせて慎重かつ丁寧に聴診することによって聴取できるものである(<証拠>参照)ところ、増田証人は、清文が診察台に仰臥していたと供述する一方、どのような方法で聴診したかについては明確に供述しておらず、このことと、カルテのうち本来同人が記載しているはずである部分が存在せず、少なくとも裁判所に提出されておらず(<証拠>参照。ちなみに、同人も記載したはずと供述している。)、ラ音がなかったとの右供述を裏付ける客観的な証拠がないこととを併せ考慮すると、同人が正確にラ音のないことを確認したか、また、確認しえたかについて疑問を抱かざるをえず、右供述は採用できないから、ラ音のないことを前提とする指摘は当たらないし、さらに、心筋梗塞症例のうち心音に一般医師の聴診レベルで明らかな異常が現れるのは比較的少数であること(<証拠>参照)からすると、心音に異常のない点も心筋梗塞を否定する一事由になりえても、強い否定の根拠とはならない。
さらに、右各証拠は、四〇才未満の若年者の心筋梗塞が稀であることを指摘するところ、<証拠>の掲げる参考文献2、3ともに、右若年者の心筋梗塞発生の頻度は少ないがありうることを示すものであり、清文が発症当時三一才であったことを考慮すると、その発症を否定しえない(なお、この点につき<証拠>記載の事由も参照)。
四 ところで、診療契約に基づく医師(病院)の債務である診療義務とは、医師がその専門的知識・経験を通じて、その当時における医療水準に照らし患者の病的症状の医学的解明をし、その症状及び以後の変化に応じて適切かつ充分な治療行為をなすべき義務をいうと解すべきである。したがって、診断を誤った場合は、一般的医療水準から考えて右誤診に至ることが当然であるようなときを除き、債務の履行が不完全であったということができる。
本件においては、被控訴人の履行補助者である増田医師は、心筋梗塞等の心疾患を疑わず、単に肝臓疾患のみと診断したのであるから、診断を誤ったことは明らかであり、急な発症、上腹部痛ないし同部の膨満感、全身の倦怠感、呼吸苦、吐き気など、心筋梗塞等の心疾患の存在を疑わしめる一方、想定しうる肝臓疾患では説明しきれない症状があった(<証拠>参照)のに、右誤診に至ったということができ、債務の履行が不完全であったというべきである。
そして、前記<証拠>によれば、心筋梗塞は、冠状動脈流血量が減少し、その支配領域の心筋が壊死することによってもたらされる症候群で、極めて死亡率の高く、しかも、発症後一週間、特に二四時間以内に死亡することが多いという危険な疾患であるから、心筋梗塞と診断されたならば、早急に適切な対策、すなわち、塩酸モルヒネの注射、絶対安静、血管の確保、症状の厳重な監視、心電図のモニター監視、抗不整脈剤、亜硝酸剤の投与、除細動装置の準備、酸素の投与など(もし、当日の被控訴人病院の診療態制が不十分であると判断した場合は、CCUのある施設へ転送する)を取らなければならず、したがって、緊急医療における実際の鑑別診断に当たっては、比較的に可能性が小さくても優先的にその該当の有無が検討されなければならないことが認められる。しかるところ、本件においては、前記説示のとおり、急な発症、上腹部痛ないし同部の膨満感、全身の倦怠感、呼吸苦、吐き気など、心筋梗塞等の心疾患の存在を疑わしめる一方、想定しうる肝臓疾患では説明しきれない症状があったのであるから、右症状に敏感に対応して、少なくとも、心筋梗塞等の心疾患の可能性を検討すべきであったし、さらに確度の高い診断をするのに必要な検査をすべきであった(心電図検査、血液検査等が直ちに可能であったことは増田証人、深水証人も供述するところである。)。したがって、増田医師の誤診がやむをえなかった事情によるとか、過失がなかったとまでいうことはできない(<証拠>も右の点を認めさせるには十分でない。)。
そうすると、清文は、右債務不履行により死亡するに至ったということができ、<証拠>によれば、心筋梗塞との診断がつけば、早急に前記のような適切な対策を取ることによって清文を救命しうる可能性が大きかったことが認められるから、被控訴人病院は、これにより同人に生じた損害を賠償する責任がある。
五 <証拠>の結果によれば、清文は、昭和四〇年三月中学卒業後、職を転々としていたが、肝臓疾患、精神神経症などで仕事をしなかったことが多く、昭和五一年以降職につかず、死亡当時(年齢三一才)も同様の状態であり、生活保護を受けていたことが認められる。右のような状況を勘案すると、清文の労働能力は、死亡時である昭和五五年度の全労働者の平均を大幅に上回ることはないというべきであるが、しかし、清文に勤労意欲が全くなかったことを示す証拠はなく、むしろ、弁論の全趣旨に照らせば体調さえよければ就労したものと認められるので、右の全労働者の平均と同程度の労働能力はあったものと評価すべきである。そこで、昭和五五年の賃金センサス第一巻第一表産業計企業規模計の全労働者(年齢三六・八才、勤続年数九・三年)についての平均給与額年間二九一万七二〇〇円を基礎とし、死後三六年間就労可能として、生活費五〇パーセントを控除し、ライプニッツ式計算法(三六年間という長期の中間利息控除となるので、ホフマン式計算法は採用しない。ライプニッツ係数一六・五四七)により逸失利益を算出すると、二四一三万五四五四円となる。
また、死亡による慰謝料は五〇〇万円とするのが相当である。
そうすると、清文は右合計二九一三万五四五四円の損害賠償請求権を取得し、その母である控訴人はこれを相続した(<証拠>による。)ということができる。
なお、本件診療契約の当事者でない控訴人につき生じた損害についての賠償請求は、右契約の債務不履行を理由とする本件請求においては、認められない。
六 したがって、控訴人は、被控訴人に対し、二九一三万五四五四円及びこれに対する死亡後の昭和五五年一〇月三一日から支払済みまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払いを求めることができるが、その余の支払いを求めることはできない。
よって、原判決を本判決主文のとおり変更し、訴訟費用の負担について民訴法九六条、九二条、八九条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 上田次郎 裁判官 中田昭孝 裁判官 若林 諒は転補のため、署名・押印することができない。裁判長裁判官 上田次郎)